せいこーうどく。

ゼロから始めるフリーダムないなか暮らしの記録

f:id:kodai1988:20160822211111p:plain 新潟県十日町市より。フリーダムに生きるための田舎暮らしブログ f:id:kodai1988:20160822211206p:plain

15歳だったわたしの祖父の戦争体験。

ある少年の戦争体験の話

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昨日、87歳になるわたしの祖父とお茶を飲んでいた時のこと。

テレビの終戦記念日のニュースをきっかけに、祖父が太平洋戦争当時の話をしてくれました。

初めて祖父の口から聞いた戦争体験の話は、とても凄惨で生生しいものでした。

 

 

 

15歳、少年農兵隊だった祖父

当時15歳の祖父は新潟県十日町市で、1945年の春から少年農兵隊として働いていました。

20代以上の男性は徴兵されてほとんどいなかったので、農家の労働力は10代の少年たち。

 

彼らはしばしば市外へと派遣されて活動していました。 

兵とは名ばかりで、仕事は耕耘などの農業や、堤防の修理などの土木業。

幸いにも、それまで新潟県は戦火をほぼ免れていました。

 

とはいえ、物資は乏しく目の前の生活に精一杯。

戦争が終わるまで、男手が減った地域を守るのが少年たちの役目でした。

 

 

 

長岡空襲の日、たまたま長岡にいた祖父

1945年7月、祖父を含む十日町の農兵隊は長岡市へ派遣されました。

いつものように任務にとりかかる祖父たち。

 

しかし7月20日、長岡市の左近地区に、長岡市にとって初めてとなる爆弾が落とされました。

それを受けて、危険な市街地を離れて山間部へ逃げ込んだ祖父たち。

さらに8月1日の深夜、長岡空襲が始まりました。

 

 B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。夜間低空からの容赦無い無差別爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。

猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。

空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,486人の尊(とうと)い生命が失われました。

925トンものE46集束(しゅうそく)焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾(しだん)が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲でした。(引用:長岡市ウェブサイト

 

上官に止められましたが、少年たちは丘を登り、八方台という山の上から爆撃を受けて燃え上がる長岡の市街地をながめていました。

祖父は「そら見るなって言われたら見たくならなぁ」とおどけて話しましたが、当時どんな思いで見ていたのかは言いませんでした。

 

このページ上部の写真は、当時の祖父と同じく八方台から見た、現在の長岡市です。

 

 

 

15歳の少年たちは、栖吉川の焼死体を片付けた

長岡空襲が終わった8月15日、ラジオの玉音放送で終戦が告げられます。

そして農兵隊の少年たちには、八方台の傍を流れる栖吉川の清掃が課せられました。

 

ほぼ全域が空襲を受けて焼け落ちた長岡市。

栖吉川には、半死半生で水を求めてやってきた人々が、そのまま川の周りで亡くなっていました。

亡くなった中には子どもも、赤ん坊を抱きしめた母親もいたそうです。

 

祖父たちは、死体と瓦礫であふれかえった真夏の栖吉川に足を踏み入れ、清掃作業に従事しました。

まだ15歳の少年たちには、あまりにも過酷な仕事です。

 

 

戦争体験を伝えることは、話し手もつらい 

祖父は当時どう感じたかの気持ちは語らず、ただ淡々とできごとを話しました。

黙って聞いていましたが、戦争体験者の言葉は映画より本より重いです。

  

年齢的に戦争を体験しているのはわかっていましたが、祖父の口からその話を聞いたのは初めてのことでした。

彼の娘であるわたしの母も、この春までそんな話を聞いたことはなかったそうです。

 

戦争体験は、話し手にとって思い出すのもつらい経験だと思います。

長い年月が経って、ようやく祖父の中で何かが消化できたから話してくれたのかもしれません。

 

原付バイクで八方台に上ったり、栖吉川沿いを走ったりしますが、現在はのどかな林道になっています。

そこに多くの血が流れた悲しい歴史があることなんて、思いもしませんでした。

 

今、普通に暮らしているこの長岡市で、ほんの71年前にあったこと。

教科書の歴史上のできごとだけで終わらせたくないと痛感しました。

重い口を開いてくれた祖父、そして亡くなった人々のため、そしてこれからを生きていく子どもたちのためにも。